ポーズをめぐって
撮るにあたって、ポーズのことは常に考えてしまう。撮りつつも、次にとらせるポーズの事を考えている。現場で的確に姿勢の指示を与えるのが、カメラマンの求められる仕事の多くの部分を占める。また、ポーズに関して、写真を自前で撮るお店から相談を受けることもある。女性たちがきつく感じるポーズほど良い写真が撮れると言われる事も多く、撮影経験豊富な女性は、厳しい姿勢を撮ることに慣れている。息を止めて、腹部に力を入れながら、カメラマンに撮られながら待っているのだ。他店の写真を参考、真似することが繰り返され、とらせるポーズには既視感が伴う。私の場合、写真を撮り始めたころ、典型的なポーズを切りぬいてスクラップしたり、カードにして現場でカンニングしたりした。ポーズには流行もあり、撮っていると、古いとか新しいとか言われることもある。撮るにしても見るにしても、わたしたちは、繰り返され反復されるポーズに今後も付き合っていくことになる。私たちはポーズをどう考えたら良いだろうか。
前衛いけばな作家、中川幸夫が自身の作品の撮影を行っていたのは興味深い。
生けた当初の姿を残さない生け花と、姿を留めて残す写真を撮る行為は相反する態度かと思われるからだ。
作品集『魔の山』(求龍堂)の中で中川が書いていた言葉を読んで、ポーズのことを思い出した。
「私は花をいける。
何をいけるか
花にひとつひとつ、〈息〉を見つけることである。
摩訶不思議は花である。はかりしれない呼吸を掴むことこそ、いけばなの第一歩と思う。
かすかに伝わる花擦れの音に露を払って開く白い蓮。
葉と花と実とを同時につける蓮は、三日だけ咲く。
いけばなは、この蓮の花の命のねばりと微妙に刻む呼吸をふまえることに尽きる。」
写真は、瞬間を切り取ると言われることがしばしばある。
げんみつにいうとその写真が扱う瞬間は、ある時間の幅、露光時間のことに過ぎない。むろん長いそれもある。ここで言うところの瞬間とは、カメラオブスキュラで壁面やすりガラスの上の像を手でトレースするよりは、早い時間という意味でしかない。中川が撮ろうとしていたのはこの時間を器としてとらえ、その中で花の息を感じさせることではないだろうか。
切り取った花が、器の中でなおも呼吸していること。そのいけばなのように、シャッター時間がいくら短くとも、露光時間を器ととらえ、その中で被写体を見ること。つまり、女性に息を止めさせず、息をさせること。ストロボの閃光時間がいくら短くとも、止められた表皮の下では絶え間なく血液が流れているはずだ。
撮らせようとするポーズは慣れてくれば、引き出しの中から自動化され、形式として取り出せる。それに慣れ過ぎてくると、ポーズさせないことには撮れなくなる。難しいのは、器をいつどう準備するかだ。『魔の山』のキャプションによると初期の中川作品は写真家に委ねられていたが、やがて自身で撮るようになってきたようだ。
ここで、わたしたちにおけるポーズ(pose)とは姿勢を止める事ではなく、expose(さらすこと)と捉えてみよう。
poseからexposeへ。器の中に置き、さらすことだ。撮る場所と時間にさらし、どのように彼女たちが動くのか、息をするのか。必要なのはでっち上げられたポーズの引き出しではなく、器だ。いや、さらにいえばここで一つの反転が生じる。ポーズするのは、ポーズが必要とされるのは彼女たちではなく、カメラのこちら側にいるわたしたちだ。感材や受光素子を彼女たちの呼吸、息遣いに曝すことなのだ。